| 
自由の女神
新天地を目指して、ヨーロッパから新大陸アメリカにおしよせた移民は、ニューヨーク港に到着した。 その時まず目に入ったものは、自由の女神
そして希望の島、涙の島、エリス島に上陸した。(1886年07月04日完成)
*アメリカのファースト・レディー 自由の女神*
1886年フランスから独立記念像が送られた、右手に松明、左手には独立宣言書、カムリは七つの角があり七つの海をあらわしている。
1871年フランスの若手彫刻家、フレデリック・オーギュスト・バルトルデイ(1834年8月2日生)は、フランスからアメリカに贈る記念像の建設のためにニューヨークを訪れた、自由主義の旗手、法学者、エドワード・ラブライェ、と友好の象徴として像の構想を練る、そして、アメリカの自由な精神を表現する像を建てようと思い立った。
パリに帰ったバルトルディは”自由は世界を照らす”という構想で、女性が希望の灯をかがげて、古い世界から新しい世界へ、自由の光と流れを示すものと考えた。
問題は女性の像の顔のモデル、バルトルディの求める”スピリット”をそなえた表情をえらばなくてはならない、また建造資金を作ることであった。
自由をかちとる必要のまないフランス人達には、バルトルディのプロジェクトに寄付をしようという人はほとんどいなかった。
しかしこのアイデアのもう一人エドワード・ラブライェの運動で記念像建造キャンペーンが開始され、宝くじが発行された。 わずかな寄付金も次第に積み重なり、40万ドルが集った。
アメリカにこの記念像の工事開始が伝いられた、寄付金のキャンペーン中 バルトルディは、自由を象徴し、かつ、若いアメリカの精神表す具体的なイメージを探し求めていた。 最終的には、ドラクロワの絵画「自由の女神」と、バルトルディ自身の母親の厳格な表情をあわせもった顔が出来上がった。
まず、4フィートのモデル作りから始まった。
この像の完成時の大きさは、151フィート(45メートル)、その高さのために強い風を捲き起こす恐れがあった。 そこでアレクサンドル・グスターヴ・エッフェルが問題の解決を引き受ける。 彼は支柱に弾力性をもたせ、どんな激しい嵐にも絶えて振動するようにし、鋼鉄の支柱には厚さ2.5mmの銅板を鋲打ちした。(エッフェルは
後にエッフェル塔を建てた)、1878年のパリ万国博覧会には像の中に入ることができた。 しばらく女神はパリの街を見下ろすように建っていた、パリを離れるときは、パリジャン達も残念がつた。
フリゲート艦イゼールに分解されて270の箱をアメリカ、ニューヨークに送られた。
しかしニューヨークに贈られた自由の女神は直ぐには設置できなかった。
ニューヨークには台座建設の動きすらなかった。
ジョセフ・ピューリッツァー(ピューリッツァー賞)が、ニューヨークでザ・ワールド" 紙の社主で、彼は新聞の売り上げを上げるために、この女神像に着目した。
フランスとの友好のシンボルである自由の女神像が台座がなく建設できない! ピューリッツァーはアメリカの自由を象徴する記念碑の台座の資金にさえ寄付を惜しむ人々の現状記事にじた、始めは、裕福な階級を対象にしていたが、思うように寄付が集まらず、一般大衆に向けたキャンペーンを始めた。
どんなに小額でもと、連日ザ・ワールド紙上は送られてきた手紙を記事にしてきた。
人々の好気心が高まるにつれ、ザ・ワールド紙の発行部数もドラマチックに増えてきた。 ピューリッツァーの2ヶ月の努力は、此れ迄のエリート階級に呼びかけたキャンペーンをはるかに上回る成功を納めたのである。
1885年65フェートの巨大な星型のベースの上に高さ89フェートの台座が完成した。(台座の設計は、リチャード・モリス・ハント) 1886年10月28日、グローバー・クリーブランド大統領の出席のもとに除幕式が行われた。
最初、この自由の女神のもつ意味は、アメリカの一般市民も理解されていなかった。 時が流れ、世紀末を迎え、移民が殺到し続けた。 言葉では表しきれない船上での苦難に耐えたあげく約10%の人々は新大陸を見ることがなくアメリカに着くことが出来なかった。
ニューヨーク湾に立つリバティー像は、新大陸アメリカに到着した人達にとっての自由の真の価値と意味のリマインダーの役を果たすことになった。 ニューヨーク市民たちも、自由の女神が単に仏・米の友好関係のシンボルでも、アイデアを芸術的に表現した物でないことに気がついた。
自由の女神は、新大陸に着いた移民たちが、未知の土地で新しい人生を切り開いていこうとする前向きのパイオニア精神を象徴していた。
それは独立戦争で、自らすすんで自由のため、尊い命をささげた兵士達の”精神”であり、生と自由と幸せを追求する、新国家憲法を作り上げた先駆者達の信念でもあった。
 |