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新しいニューヨークの写真
マンハッタンの歴史
マンハッタンの歴史は1609年9月11日にオランダの東インド会社所有の船、HALVE MAEN(英語だとHALF MOON)号により発見されたのが始まりである。
この時の船長が東インド会社に雇われたイギリス人探検家で現在ハドソン川の由来になっているヘンリー・ハドソンである。
マンハッタンの名前はHALVE MAEN号の乗組員、ROBERT JUETのログブックに記載されていた、現地に住んでいたインディアンの部族名で“丘の島”の意味を持つ“MANNA-HATA”が変化したものである(確かにマンハッタンの地形は岩盤の丘である)。
“MANNA-HATA”の名前は1610年、地図に記載されて日の目を見る。
しばしばオランダ人はマンハッタンを“素晴らしい川(ハドソン川)の賜物”と書記に記しているが、そこまでオランダ人がマンハッタンを気に入ったのは豊富にある高価なビーバーの毛皮の他、ニューヨーク北部へ通じるハドソン川の水運、大西洋に面しヨーロッパからも近い地理条件、港に適した水深があり、細長い島であるゆえ両岸を港として利用できること、北に位置しながら不凍港であること、両側が大きな川(正式にはイースト川は海)であるゆえ敵からの攻撃も防ぎやすいなど利点が沢山あった。但し発見当時東インド会社の経営陣達はヘンリー・ハドソンのニューヨーク発見に全く満足していなかった。
会社の名前の通り本来はインドでの植民地経営を目的にした会社であり、HALVE MAEN号の航海もインドへの近道を発見するのが目的であった。
事実ヘンリー・ハドソンはハドソン川発見時アメリカの一部とは考えずインドへの近道と考え、マンハッタン発見後ほとんど探索せずに直ぐにハドソン川探検に入っている。但し現在のアルバニー近辺で水深が浅くなったところで実は川だったことを発見、再度マンハッタンに戻ってきている経緯がある。
またヘンリー・ハドソンが報告したのにも関わらず、会社側はその後マンハッタンとハドソン川北部で多大に栄えた毛皮貿易の可能性も見出していなかった。事実その後東インド会社はヘンリー・ハドソンを“クビ”にしている。オランダがマンハッタンの価値を見出したのはヘンリー・ハドソンの死後、マンハッタン発見後15年も経ってからである。それは別の商人達がマンハッタンへ船を出し、毛皮を沢山持ち帰ってきたからである。
当時マンハッタンに渡ったオランダ商人達は一時的な滞在だけだったが、現在のバッテリーパーク周辺に交易所を設置、インディアンが興味を持ったビーズや生地と交換に毛皮を入手してオランダに送付、多大な利益を手に入れた。彼らはマンハッタンに定住することを考えておらず、毛皮も直ぐに無くなると思っていたが、底を尽きることが無い毛皮を前にインディアンを通さずに独占することを考える。
オランダは1623年に大西洋西側の開発を目的に西インド会社を設置、ニューネザーランド州の毛皮貿易開発が重要な業務となる。
また1626年にオランダ政府は60ギルダー(24ドル)相当の物品でインディアンから島を買収する。この時の物品とは従来通りビーズやカラフルな生地であったが、将来この島が700億ドル以上の価値を持つ世界の中心になるとは当時のインディアンにもオランダ人にも考えられなかったのであろう。
マンハッタン買収後、オランダ人はニューネザーランド州州をマンハッタンの南にあるガバナーズ・アイランドに設置(ニューヨーク州の始まり)、その後ニューネザーランド州はニュージャージ州の南部とコネチカット州の西部(それぞれ現在のニューヨーク都市圏)も治めるようになる。
また1625年には現在の金融街周辺にニューアムステルダムの町を設置する。
これがニューヨーク・シティーの始まりである。当時の市人口はわずか270人。マンハッタンの南端だけに集落があった。また現在バッテリーパーク北端になっているボーリンググリーンはこの時代にすでにあったニューヨークの歴史上とても重要な公園であり、市民憩いの場としてのみならず昔重要な決まり事などはこの公園で決議されていた。
1633年にはオランダから軍隊が到着。またアフリカから黒人奴隷が入るようになり、ニューアムステルダムは毛皮貿易以上の発展を見るようになる。新しい建物も多くでき、また多くの農園や牧場も開拓された。なお道路は最初に出来たのがマンハッタンの南東を走る短い道路で現在のPEARL
STREET、その後ダウンタウンを南北に走る現在のBOWERY STREETができた。現在はマンハッタン内所狭しに縦横走っている道路も、当時はたったの2本だけで十分であった。
しばらくオランダ人は先住民のインディアンと仲良くしていたが、1637年に3代目の総督キーフトがオランダから派遣されると、次第に迫害するようになる。
インディアンの部族達はニューネザーランド州外に住んでいる敵の部族から身を守るためオランダ軍に対し保障代を支払っていたが、ある夜オランダ軍は一部の部族に対し奇襲攻撃を掛け殺してしまう。
今度は逆に地区内のインディアン達が結集してオランダ人に攻撃、家畜を殺し、女性や子供を迫害する。オランダ人とインディアンの戦いは3年間余りも続く。また金融街にある有名なウォール街は、インディアンからの攻撃を防ぐために造られた壁(ウォール)がその場所にあったことに由来している。インディアンとの戦いはキーフトがオランダへ戻され、4代目総督スタイバサントが友好を取り戻してから再び落ち着く。
1652年イギリスとオランダとの間に戦争(英蘭戦争)が勃発。ニューネザーランド州も隣のニューイングランドをイギリスが統治していたことから緊張が走る。イギリスはアメリカ大陸全土の統治を望んでおり、ニューイングランドの近くにいるオランダの存在が邪魔だったのだ。
1664年、イギリス国王のチャールス2世と弟ヨーク侯は当時のイギリスの植民地、ニューイングランドから大量の軍隊を送り込みニューネザーランド州とニューアムステルダムの受け渡しを迫る。
スタイバサントは受け渡しを頑なに拒んだが、頑強なイギリス軍に対抗しようとするものはニューネザーランド州内には他にいなかった。
1664年9月8日、ニューネザーランド州およびニューアムステルダムはイギリス軍の手に堕ち、両方共イギリス領“ニューヨーク”となる。1673年7月に再度オランダが奪回したが、翌年再びイギリスが占領している。
イギリス軍は当時フランスが統治していたカナダを入手することを目標にしており、ニューヨークを含めたニューイングランド軍がフランスとの戦いに充てられた。
しかしフランスとの戦争は重税に結びつき、ニューヨークの住民はイギリス政府に対し不満を持つようになる。1765年には新聞や広告、証書、契約書など全ての印刷物に印紙を購入しなくてはいけない法律まででき、日常生活にも税金を納めなくてはいけない状況となった。
ニューヨーク商人たちはイギリスによる強制に対抗するために“SON OF LIBERTY” (自由の子という意味)の組合を作り、輸入品ゆえ印紙を伴うイギリス商品不買運動を先導し、一般市民も協調するようになる。
当時のニューヨークは物資のほとんどをイギリスからの輸入品に頼っており、アメリカ国内産は少ない上に質も良くは無かったがそれでも構わないと言う人が多かった。結果としてこの印紙条例による暴動も起き、法律は翌年解除されている。
今度はニューヨークに駐在するイギリス軍人の衣食住を無料にする法律が出来た 。
従ってニューヨーク市民がイギリス軍人を養うことになるのだが、当時アメリカにおけるイギリス軍はニューヨークを主な拠点にしていて相当数の軍人がいたので、市民に掛かる負担はかなり大きなものになる。当然市民からは大きな反発が起きる。
またイギリス政府は紅茶の強制購入を市民一人一人に義務づけることにする。ニューヨークで販売する紅茶の値段は本国より安かったが、イギリスからの輸入品なので自然と税金を載せているのである。
紅茶を飲もうが飲まないが強制的に購入しなくてはいけないので市民は大反発、“SON OF LIBERTY”組合は強制購入法適用後最初の紅茶船の入港を拒否する。その後紅茶を運んでいないと見せかけた船には強制捜査を行い、紅茶を発見次第川に捨てるというボストン茶会事件と似た様な事態も発生する。
ニューヨークでの印紙条例事件に始まる一連事件やボストンの茶会事件などイギリスによる圧制が、アメリカ独立運動に結びつく。
1775年ボストン近郊でイギリス軍とアメリカ軍が衝突。これに引き続き後に初代大統領となるジョージ=ワシントンが率いて独立戦争が起きる。ニューヨークでは他の州同様、ブルックリンやスタテン島、ロングアイランドの戦いで負けイギリス軍に占領されるが、その後のハーレムハイツの戦い(現在の160丁目とセントニコラス通り周辺)で独立軍として初めて勝利を収める。
その後もイギリス軍と戦いは続き、アメリカ軍が劣勢になったため隣のニュージャージー州に撤退してマンハッタンはイギリス軍に占領されてしまう。
しかしその後のバージニア州チェサピーク湾とヨークタウンの戦いなどでアメリカ軍が圧勝し、1781年平和条約を結んでイギリス軍は撤廃する。
1788年合衆国憲法を採択して、1789年3月4日に発効、アメリカ政府が発足する。同時にニューヨークが初代首都となり、フィラデルフィアに首都が移動するまで機能する。初代大統領はジョージ=ワシントン。
ウォール街にあるフェデラルホール(旧市役所)で就任宣言が行われる。
イギリスの植民地後多大なる発展を遂げていたニューヨークは独立以降発展を更に加速する。1790年に首都がフィラデルフィアに移動してしまうが、1792年は証券取引場開業、1806年に最初の無料公立学校設立(それまでは有料の教会内の学校が主)、1811年にダウンタウン以北の道路を碁盤状のシステムで建設開始、1812年に現在の市役所完成など現在のニューヨークに欠かせない基盤を続々造っていく。
またマンハッタンはダウンタウンから北へ北へ街の広さを拡大していく(今では建物だらけのマンハッタンだが、最初はあちこちに建物があったわけではなく、北部は主に裕福層の住居や農園だった)。
市街地の拡大に伴い当時は更にあった丘を削り、道路を建設し、建物を建築していった。また1800年代初頭に蒸気船が開発され船運が更に便利になり、また1825年にハドソン川と五大湖をつなぐエリー運河が開通し寄港地としてニューヨーク港の役割が更に重要性を伴うとマンハッタンは更に拡大される。
発展と共にマンハッタンの人口も増え続け1790年には約3万3000人だったのが20年後の1810年には倍の約9万6000人になる。1820年にはマンハッタン自体でそれまでのボストンを越してアメリカで一番の人口を持つ市になった。またニューヨークの発展=アメリカの発展は当時飢饉等で貧しかった多くのヨーロッパ人を魅力し、この時期多くの移民が大西洋を越えてアメリカへ渡る。これらほとんどの移民はマンハッタン沖にあるエリス島で入国審査を行った後、マンハッタン内に入っていくのである。
移民の増加はマンハッタンの人口増加と結び付き、1850年に人口は50万を超える。1870年代半ばには100万人を超す。なお2000年のマンハッタンの人口は153万人である(ピークは1920年の228万人)。
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